【映画監督 松林宗惠生誕100年】

【映画監督 松林宗惠生誕100年】
本日、2020年7月7日、七夕は父の誕生日です。今から100年前1920年の7月7日、七夕に父は島根県江津市に生まれました。
そして2009年の8月15日に89歳で浄土へ往生しました。生涯70作品の映画を監督し、昭和の東宝映画では野球に例えてクリーンアップを打つ市川崑監督と黒澤明監督にチャンスメイクをしてバトンを渡す斬り込み隊長のトップバッターが松林宗惠監督と言われ、東宝映画の良き時代を映画監督として牽引し活躍しました。

ニックネームは和尚。僧籍を持ち、海軍士官の経歴を持つ厳格な男でした。
東宝映画社長シリーズ23作をはじめ、こんにちは赤ちゃん、関白宣言、人間魚雷回天、太平洋の翼、連合艦隊とヒット作を世に送り出しました。

今日から2021年の7月7日まで私は父ではなく、1人の人間として尊敬する僧侶でもあり映画監督、松林宗惠の軌跡を残したいと父の他界後に決心し、東宝と松竹で松林組の作品に出演した演者、スタッフとしての撮影現場での経験と仏教伝道を共にした父との葛藤の歩みを伝え残していくのが私の使命だと考えています。

父が生前映画を通じて御縁の深い俳優の皆様、スタッフの方々には昨年よりご案内して居りました2020年予定だった、松林宗惠生誕100年祭イベントや上映会は新型コロナウイルス感染拡大防止のため全て中止、延期とさせて頂き申し訳ない気持ちでいっぱいです。

しかしながら私のYouTubeセイギョウチャンネルで何回かに渡り、当面は松林宗惠を語る番外編と題してプログラムを設け、ゲストも予定に組める様に企画を進めて居りますので、ご視聴いただけましたら幸いに存じます。

本日は第一回の番外編を更新いたします。
何卒応援のほど宜しくお願い申し上げます。

まことしやかに…さりげなく。。。合掌 

2020年7月7日 七夕 松林正曉


松林宗惠作品短編集
[映画監督 松林宗惠 龍谷人偉人伝]
https://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/72/13_greatman/index.htm

龍谷人偉人伝 | 松林 宗恵

(一) 松林宗恵と森繁久彌は、「和尚」「繁さん」と呼び合う仲であった。森繁は松林が監督した映画に三十本以上出演していた。松林の自伝『私と映画 海軍 仏さま』に寄せた序文に、森繁はこう書いている。「長い年月、この飄逸で暖かい心の持ち主に教わることが楽しみだった。それでいて結構生ぐさい人間味のある方で、それが混然とこの人の身上を作っていると信じて疑わない」 「飄逸で暖かい心の持ち主」であったことは、多くの人が認めるところであろうが、松林の「生ぐさい人間味」というのは、どんなことなのか。謦咳に接したが、これは、ちと、面と向かって聞くわけにはいかなかった。 松林は、平成二十一年八月十五日、終戦記念日に八十九歳の生涯を閉じた。九月十日、東京都世田谷区の東宝スタジオで、お別れの会が開かれた。ステージは海軍士官であったことをイメージして、海原を進む船が花で模ってあった。中央に白いあごひげを生やした大きな遺影が飾られていた。[海ゆかば]の曲が流れた。 遺影の前で、司葉子が追悼の辞を述べた。《青い山脈》の撮影の時の話をした。石坂洋次郎のこの題名の小説が評判を呼び、戦後、五回、映画化された。松林が監督したのは、昭和三十二年であった。司葉子、雪村いずみ、草笛光子、宝田明らが出演した。ロケ地は、岐阜県の恵那市であった。 来る日も来る日も雨がふって、撮影は休止、スタッフは、宿舎の旅館に閉じ込められた。「誰か、精進のわるい人がいるからよ」と女優の一人がつぶやいた。「それは、和尚よ」女優達は口を揃えた。 松林は、女優達に捕まった。二階の広間で布団蒸しにされ、海苔巻きのようにくるくる巻かれた。女優達はそれを神輿のように担いで、わっしょい、わっしょいと部屋をまわった。松林は「御免よ、御免よ」と言った。司葉子は、「もっとやれ、もっとやれと、と聞こえました―」と語って、しばし、壇上の遺影を見つめた。(二) 松林は昭和十六年、龍谷大学専門部を卒業した。当時、文学部と予科と、専門部があった。専門部はほとんどが寺院の出身であった。松林は在学中に吉川英治の『親鸞』を読んだ。「非僧非俗」という言葉が胸に焼きついた。法衣をまとわない僧侶で行こうと決心して上京した。 日本大学の

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プロドラマー/タレント/プロベースボールテクニカルコーディネーター松林正曉(SEIGYO )オフィシャルサイト

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